2018年8月19日

近代登山を「発明」したのは、なぜ英国人だったのか (2) 考察編

前回、近代登山の黄金期に英国人が活躍したことをデータでお示ししました(こちら)。
それでは本題です。なぜ、英国人だったのでしょう?
  

(1) 歴史的背景 - 欧州における革命 

消極的な理由ではありますが、英国を除く欧州諸国は、19世紀は政治的に不安定な時期であり、登山をしている場合ではなかったという点が挙げられます。

19世紀半ば、欧州では1848年革命、または「諸国民の春」に代表される革命が、各地で起きています。

*各国の例 
スイス
1848年 ゾンダーブント戦争(スイス国内における内乱))

フランス
1832年 6月暴動
1848年 2月革命 

その他、イタリア、ドイツ、オーストリアでも民衆による革命が起きています。

一方の英国はというと、1760年代に始まった産業革命の影響が1830年代にゆっくりと広がり、議会政治と民主主義が発達していった頃です。

(2) 社会的背景 産業革命による新しい階級の台頭


英国でいち早く起きた産業革命は、新しい社会層、つまり中流階級(middle class)を生み出しました。
これまでの貴族階級でもなく、労働階級でもない、新興ブルジョワジーたちは、経済的にはパワーを持っていたけれど、新興階級ゆえに社会的な地位は確立していませんでした。

そこで彼らは、自分たちの階級の存在意義やアイデンティティを示すために、未踏峰の山に向かったのです。

当時(1857-1876年)の英国山岳会会員の職業をみると、弁護士や実業家、学者が多いです。

参考:内訳図表


余談になりますが、英国では、この、いわゆるUpper Middle Class出身者が近代登山の担い手であったことが、英国山岳会がエリート主義で排他的な団体であることにつながっていると思われます。
英国山岳会と対照的に、その後発足したオーストリアやドイツ山岳会は、多くの会員を受け入れています。(英国山岳会は13000フィート(約4000m)以上の山に登っていないと入会資格がありませんでした。)


(3)精神的な側面- 英国の帝国主義


上記(2)に述べたように、新・中流層は、自分たちの社会的存在意義を示すことが登山のモチベーションの一つになりました。
ですから、英国人アルピニストたちは、当時の大英帝国の植民地主義に対抗するかのように、自分たちの名をあげるような登山、未踏峰を「制覇」するような登山を目指しました。

それを踏まえると、ヨーロッパ・アルプスの登頂記録や紀行文をみると、「Conquer (征服する、獲得する)」 やVictory(勝利)、Defeat(打ち負かす)といった勇ましい表現が多いことに気づきます。

私が敬愛してやまない槙有恒氏だったら、絶対に使わなかった言葉だと思います


(4) 物理的背景 - 交通の整備と余暇の創出


鉄道ができて、アプローチがしやすくなったことも実質的な要素として挙げられます。
英国から海を越えて欧州大陸に来ることが以前よりも容易になったわけです。

そして、産業革命による工業化は「余暇」という概念ももたらしました。経済的な余裕ができて、余暇にスポーツをして旅をする人が増え、そして純粋な楽しみとしての登山をする、という習慣が根付いたのです。

以上のように、英国人が近代登山で活躍した背景を挙げましたが、その背景には、スイス人やフランス人をはじめとしたガイドの存在は大きく、特筆すべきでしょう。
が、それは長くなるのでまたの機会に!


参考文献


新米山研委員 わだこ記


2018年8月14日

近代登山を「発明」したのは、なぜ英国人だったのか (1) - データ編

以前ご紹介した「ウォルター・ウエストンと上條嘉門次」を読んでいた過程で疑問がわきました。
19世紀後半の近代登山の黎明期に英国人の活躍が目立つのは、なぜなのでしょう?なぜ、地元のスイスやオーストリアの人ではなかったのでしょう。

全く関係ないですが、飯豊に行きました

かの島国はとても平らで、最高峰は1,344m(Ben Navis)です。
近代登山の黄金期をつくった人たちは、たいそうFlatな島から海を越えてヨーロッパアルプスを目指したことになります。


*本ポストは、下記の記事を参照しています。
参考文献

***著者に翻訳・引用の許可を得ています。


英国人の活躍

実際に、英国人が近代登山にどのように関わったのか、数字で見てみましょう。

データその1
1786-1878年の間のモンブラン登山: 
1位 英国 448回、57.4
2位 フランス 132回、16.9%
3位 アメリカ 76回、9.7%
(スイスは39回 5%)
*1852-1857年に限れば、64パーティ中、60は英国)

データその2
1854−1865年(= アルプス黄金時代)の間、ヨーロッパ・アルプスの4000m峰のうち、英国人が初登頂をなしたのは、31、その他は4
4000m峰に限らない場合、槙有恒氏「私の山行」によると、140座のうち、70以上が英国人。

近代登山とは?

上記データその2では、アルプス黄金時代として1854−1865年に区切っていますが、この期間がいわゆるアルプスの初登攀がなされた黄金時代と言われています。
1865年=E. ウィンパーがマッターホルンに登頂した年、でわかりますが、では、1854年というのは?

答えは、アルフレッド・ウイルスによるヴェッターホルンの登頂の年です。

1786年のモンブラン登頂以降、1854年までにも多くの山が登られましたがそれらの多くは、植物採集やら氷河の研究、など、自然科学の研究を理由に登られており、純粋に楽しみ・スポーツとしての登山は、ウイルスが初めてだったからと言われているためです。
・・・輝く黄金時代って、なんにしても短いものですね。。

では、やっと本題に戻ります。

なぜ、イギリス人だったのでしょう?
考察編に続く~!


新米山研委員・わだこ記

2018年8月2日

徳本峠あれこれ

上高地ルートは、よくクラシックルートと言われ、一度は歩いてみたいという方も多いですよね!

釜トンネルができる前は、上高地に入るためには峠を越えるしかアクセスがありませんでした。
小島烏水もウエストンも歩いたこのルート。

私も2回だけ歩いたことがありますが、注目ポイント2点をご紹介します。

(1) 徳本峠小屋 (小屋のホームページもぜひご覧下さい→⭐︎) 

徳本峠までのつづら道をひーこら登りきると、迎えてくれる徳本峠小屋。
2010年にリニューアルされました。

こちらは、なんと、山研委員でもある、信州大学の土本先生が設計されたんです。
大正12年の建設当時から残る、古い部分と、新しくリニューアルされた部分が共存しています。




山小屋というと・・・、とかく、トイレがきれいでしたとか、ごはんがおいしかったですとか、利便性や新しさに目がいきがちですよね。
ですが、山小屋は、行き来する登山客の安全を守ってくれている存在。そして、そこにたたずむ歴史の証人でもあります。

徳本峠小屋は、歴史的な建造物としての価値を現代まで残しつつ、安全面・利便性、そして古い部分の良さを損なわないデザインが活きる、土本先生の配慮がすみずみまで行き届いた素敵な小屋です。
こうした徳本峠小屋のような試みは、日本全国でも珍しいのではないでしょうか。 
(土本先生は、今後、焼岳小屋のリニューアルにも携わられるのだとか。お話をまた記事にしたいと思っております。)

ちなみに、ウエストン祭のときは、ウエス「トン汁」、ということで、小屋の皆さんが豚汁をふるまってくださいました。
そうしたお心遣いもうれしいですよね。

時間がゆるせば、こちらの小屋に泊まって霞沢岳に足をのばしてみたいなぁ。。


(2) 「古道・徳本峠を守る人々」の登山道整備

島々から峠への登りまではしばらく、沢伝いの道が続き何度か沢を渡ります。
昨年(20176)歩いた時は、丸太が一本かかっているだけで、おっかなびっくり歩いた箇所に・・・
今年は立派な橋がかかっていて感動しました!





地元の人たちが作った「古道・徳本峠を守る人々」のメンバーの皆さんが道を整備してくださっているとのこと。
 「山と渓谷」20185月号にその記事が掲載されていました。

沢沿いの道に、橋の建材をヘリで運ぶわけにもいかないし、大変なことです
記事によると、島々ー明神の全長20 kmの道は、毎年のようにどこかが崩れ、その度に歩けなくなるといいます。徳本峠小屋や上高地の地元の方々のご尽力によって、この登山道は守られているのです。

徳本峠越えは、いつも登山者の安全を守ってくれている、山小屋も、登山道も、当たり前に存在しているわけではないということを思い出させてくれます。ぜひ、歩かれる際は、気に留めてみてください。


あ、そうそう、「徳本峠越えは、行程も長いから不安」・・というお声をよくうかがいます。
ハイ、結構長いです。(コースタイムで10時間程度、距離にして20km、高低差1400m程度)

こちらは6月のウエストン祭記念山行で島々から歩いた時の記録。
(なお、上高地から越える場合の方が、登りが少ない点、最初にがつんと登る点で、少し楽かと思われます。)




徳本峠越えは、エスケープルートがありませんし秋は日照時間が短くなることを考慮すると、特に日帰りの場合は、体力に自信のある方におすすめです。





新米山研委員・わだこ記